インドに出会う、お釈迦様の足跡を訪ねて北部インド・ネパールの旅をした。成田から9時間半、インデラガンジー国際空港に到着する。途中、上海・昆明・タイ北部・ミャンマー北部を通りヒマラヤ山脈に沿って西に向かう。強い西風に向って進む為にスピードは遅い。中国・タイ・ミャンマーは山岳地帯を飛ぶ為に飛行高度が1万mのわりに地上が非常に近い。山の尾根ずたいに山岳少数民族の集落や斑模様に焼畑が見える。畑を焼く煙りも立ち登っている。こんな所(標高3〜4千)にも人々の生活が有るかと地上での生活の様子に思いが巡る。
インデラガンジー国際空港は20年前、家族で訪れた北京空港の印象と重なる。TATA自動車製(インドの財閥、日本の三菱のような)のバス(軍用バスのイメージ)が迎えに来ている。後で理由は解った、到着時刻が夕刻と言う事もあってホテルへチェックインを済ませてホテルのレストランで夕食を取り寝る。翌朝、国内線でロクノールへここからが本当にインドの旅が始まる。バスの車窓にはNHKで放送されたシルクロードの番組さながらの光景が続く。道路は穴ぼこだらけのガタゴト道狭い道路に牛車、バイク、自転車、トラックターが溢れかえる
ロクノールから地平線迄、続く畑の中のハイウェイ (舗装道路を彼らハイウェイと呼んでいた)勿論、牛車、単車、ロバ、トラッター、裸足の歩行者、何でも通っている。道の両側に続く農地は牧草地ではなく畑だ、多くの人々が農作業に出ている。小麦、サトウキビ、カラシナ(マスタード)などが栽培されてサトウキビの収穫が行われていた。農作物は原種のようで品種改良された日本で見るような作物ではない。暫くバスが走ってトイレ休憩となるがトイレは何処にも見当たらない。ガイドのアミル・ジャマル氏から説明があるインドにはトイレがないと ・・
道路脇の畑へ入ると牛の糞、ロバの糞、人間の糞いろいろな糞が大小さまざま足元に散乱している。ジャマル氏は糞を踏んでバスに乗らないように注意して下さい、「前回のツアーではバスの中が凄い臭いでした」と話す。しかし、どの糞にも紙を使って拭いた後がない、不思議な話しだが水で洗うにも川も池も見当たらない。我々も慣れるまでは遮蔽物を探して用を足していたものが、帰る頃には何処でも抵抗なく用が済ませるようになる。同乗する女性も同じくサトウキビ畑や豆畑があるとバスを止めて子供の頃の遠足のノリで用を足すようになった。
バスは一路バルランプールへ向けハイウェイを飛ばす。対抗車があっても気にせず前方のトラックを追い越し、右へ左へとハンドルを切り、けたたましくクラクションを鳴らしながら爆進する。同行する僧侶が「お釈迦様も2600年前に同じこの景色を見ながら旅をされたかと思うと感慨無量と」話す、そこで私は和尚さんに2600年前は地球の人口が2億人、現在64億人だから32分の1なのでここの景色は同じ場所でもジャングルでベンガル虎やインドライオン等の猛獣が歩き回り追剥、盗賊が出て旅も命掛けで大変だったと思うと口を挟む。
インドの農村と中国やベトナムを考えてみた。貧富の格差はどちらも大きいが何か違うように思えてならない。期待や夢を感じながら躍動的に動き回る人々のインドの農村と中国やベトナムを比較して考えてみた。貧富の格差はどちらも大きいが何か違うように思えてならない。期待や夢を感じながら躍動的に動き回る人々の波が続く中国やベトナムとインドは異なり宗教と植民地支配いが重く影を落としているように思えてならない。共産党一党独裁の弊害もあるが人々を貧困から救うには宗教よりも思想にもとずくビジョンとスローガンがある程度は必要になる。中国、ベトナムの街角には赤い布にスローガンを書いた旗や横断幕が目に入るがそれがヒンズゥーの戒律によると街中に牛を放つ事になってしまう
現在のインドはヒンズー教・イスラム教・シーク教・ユダヤ教・キリスト教・ゾロアスター(拝火)教・仏教等の宗教が日々の生活に生きずいる。取り分けヒンズー教徒の人々は輪廻転生を信じ来世での生まれ変わりの思想の中で生活している。生まれ変わる者に墓は必要ない。旅行中に見た墓地はただ一ヶ所キリスト教のものだった。ヒンズー教では死者は陀毘に伏されガンジス川に灰を流し葬る。従って死は命の終わりであり新しい命の始まりでもある。我々日本人には理解し難い感情だが、死の悲しみは生まれ変わりを信じることで希望に変わる。
悪路を早朝から走り続け夕刻マヘト到着、コーサラ国・舎衛城跡(仏教の八大聖地の一つ)を訪ねる。積み上げられた古いレンガが往時の城郭を偲ばせるが中東で見た、ローマやキリスト教の遺構と比較すると地味なものであった。「世界がもし100人の村だったら」を思いだした。たしかキリスト教が33人イスラム教が19人仏教が6人と仏教は弱小派閥だったけ、遺跡をお参りして居ると周囲には物売りの人々が近づいてくる。仏像や数珠等を必用に売り売り付けようと取り囲むカイドのジャマルは何も買うなと声を掛けていた。
マヘトからサヘト(祇園精舎)ヘ、サヘトはお釈迦様が異教のテイルヤイヤ布教者達の謀り事を見破り一大奇跡を行なった場所と言われている。ここでお釈迦様は阿弥陀経を説いて亡き母に会いに天上界へ登ったと言い伝えられている。サヘトはチベットやスリランカ等の仏像国から巡礼者が訪れていた。ここで印象に残った事は松葉杖を付き片方の足の指が10本ある奇形の人や車椅子に載せられた奇形児を連れた親が物乞いをする姿を見かけた。さすがに写真は撮らなかったが身の不幸を資源に物乞いをする姿に生きる意味を考えた
祇園精舎(サヘト)から宿泊するホテルへインドの人々が生活する世界とは別な空間とでも表現したらよいか?それでも日本であればとても良い宿とは言い難い、蚊取り線香がいる寝床で外から一晩中イスラム教のコーランを朗読する声が大音量のスピーカーから流れている。夜、宿の外へ出るとバスの側で自炊する運転手とドア係りがいた。「今日はどれくらい走ったか」と聞くと170Kmだと言う日本で走る感覚の半分の距離であった。翌朝5時半起床ルンビニ(お釈迦様の生誕地)へ向かう。 朝靄の中バスはひたすら跳ばす。
バルランプールからルンビニへ。朝靄のなかバスはライトを点けクラクションをけたたましく響かせ悪路を走りネパール国境を目指す。インドとネパールの間には15分の時差がある。朝7時にホテルを出て国境の町ソノウリに着いたのが午後1時過ぎ、渋滞と出入国手続きで1時間を取られた。止まったバスの周りには大勢の物売りが集まり、周囲の建物の屋上には土嚢を積み上げ機関銃を構える兵士が見える。国境の緊張感が伝わってくる。日本からの連絡ではネパールは総選挙中で渡航注意と外務省の海外危険情報が出ているらしい。
インドとネパールの国境を越え、ルンビニにあるホテルへ、ここで遅い昼食をとなる、鶏の唐揚げ定食、午後3時近い昼食で和食となると凄いご馳走に思えてならない。食事を済ませお釈迦様の生誕の地、ルンビニ園を参拝し般若心教を唱える。ここにはマヤ堂が建てられている。マヤ堂の中にはアショカ王がお釈迦様がお産まれになった場所を標す為に安置したマーカスストーンがある。インドの仏教遺跡には建物は何も残っておらずレンガ造りの基礎の一部が有るだけで往時を偲ぶ黄金の埋蔵品はイギリスの植民地時代に全て持ち去られている。
そして、インドの伝統的な繊維・工芸等(カシミア・彫金等)の産業をイギリス本国へ技術者もろとも持ち去り残った技術者の指を切り取ったり目を潰し失明させて技術を絶やしてしまった。徹底的に原料資源だけの供給国としてインドを植民地支配してきたらしい。私はジャミル氏に日本の大東亜共栄圏を掲げて戦った第二世界大戦はインド独立に影響を与えているのではないかと聞くとインド人が持つ戦前の日本のイメージはインパール作戦で多くの犠牲を払った事よりも戦時中日本軍が占領したアンダマン・ニコバル諸島監獄で起きた事件の悲しい歴史をジャミル氏が語る。
アンダマン・ニコバル諸島にあるポートブレア監獄はイギリス統治時代にはインド独立運動参加者の流刑地になっていた。開戦当初日本軍が占領しスバス・チャンドラ・ボースによる自由インド政府の統治下に移したが、日本の敗戦間際に島への食糧輸送が途絶え、これに窮した日本軍守備隊が島に当時居た自由インド仮政府の人々を別の島へ移ると言って輸送船に乗せ、沖に出たところで船を沈めて数百名を虐殺した事件があった。この事件が日本の敗戦後インドで大きく報道され日本の印象を現在でも悪いものにしているとジャミル氏が話してくれた。
ルンビニ園マヤ堂を参拝し外へ出ると樹齢数百年と思われる菩提樹の下に、うす汚れた白衣を纏う行者らしき老人が瞑想にふけっ居る。座禅を組む膝の前にには空き缶が一つ置いてあるので中を覗いてみると小銭が少しある。それではと思い財布から1ドル札を出して空き缶に入れて、瞑想に耽る行者に向かい合掌礼拝する。集合時間が近くなったので戻り掛けて暫く歩いて振り向くと行者が白衣の袖の中に今、入れた1ドル紙幣を隠すところだった。インドでは何でも全て飯の種になるとこれまた感心する。商売や生活の原点をみるような気がした。
広い公園のようなルンビニ園をリクシャーと呼ばれる自転車の頭にリヤカーが直接取り付けられたような、お客を二人載せる(リンタク)乗り物で園内を一周して出口へ向かうと、先ほど菩提樹の下で瞑想していた行者が座布団と空き缶を持って家路を急いでいた。インドでは裸足で生活している人も珍しくないのに行者の足元はサンダルを履いている。何でも商売の国、相手が難行苦行をしている尊い行者と思い込んで布施するのは勝手で此れも大切な飯の種になる。人生に壁は無いと感心する。あるとすれば自分自身が内なる壁を築いて苦しむ事だ。
旅も三日目の朝となりルンビニ園を後にクシナガラ(お釈迦様入滅の地)へ向かう国境を越え再びインドへ入国、多少あったネパールの国勢選挙に伴う政情不安もクーデターも起らず無事に出国できた。途中、武装した軍隊を載せた軍用車両とはすれ違っていたが特に緊張感はなかった。悪路を走る事3時間半ゴラクプールの街を通過し昼にはクシナガラへ入る。途中「〇〇プール」と言う地名に良く出会うがヒンディー語で〇〇町の意味だそうだ。午後、陀毘塚(お釈迦様の亡骸を陀毘に伏した)を参拝する。綺麗に整備された公園のような場所
クシナガラには陀毘塚の近くに涅槃堂が建てられている。この涅槃堂は当時マッラ族の都であったクシナガラの郊外に位置し、お釈迦様が80歳で入滅された場所になる。現在お堂の中にはお釈迦様の涅槃像が安置されている。我々が訪れた時には堂内にネパールからの巡礼者団体が読経の最中であった。彼らのリーダーらしき人物が読経を途中でやめ遠来の客、日本から来た我々に先に参拝出来るよう席を譲って貰う。飛行機とバスを乗り継ぎ3泊4日の旅でたどり着いたお釈迦様入滅地2500年の時間を超えて感慨深い思いがこみあげてくる。
インド巡礼の旅も後半に入り旅程も残り僅になる。クシナガラを後に早朝濃霧の中をバスはケサリアの大仏塔遺跡を目指す、道路は国道をハズレ未舗装の悪路、砂埃りを巻き上げ3時間半の道のり途中トイレ休憩を入れながらバスを進める。バスを止めるとすぐに、何処からともなく人が集まりバスの周りは人だかりとなる。その人垣を離れて用を足さなければならない。地平線の彼方迄続く田畑には農家が点在している。中国の黄土高原では畑を耕して天へ届くと言うが、インドでは畑を耕し地の涯へ至る、中国もインドも10億を養う大国である。
見渡す限りの平原に小高い丘が現れる。目指すケサリアの大仏塔遺跡(地上部分、高さ32、5m、幅132mで地下部分を含めると高さ41、5m、幅225m)発掘作業が途中で半分は遺跡反対側は小高い丘に見える。遺跡の周りの畑では小学生ぐらいの子供が草刈の作業をしている。リーダーと思われる女の子に付いて仕事か遊びか分からない。それでも見ていると刈り取った草を両手一杯に抱えて運んでいる。インドでは識字率・就学率が3〜6割とも言われる。我々が訪れたインド北部のビハール州はインドで最も貧しい地域と聞いた。
今回、インドを旅して感じた事は、日本ではIT産業が飛躍的な発展を遂げ経済が絶好調といったイメージがある国インドが現地へ行って見ると25年前に初めて中国(上海・天津・北京)を訪問した時よりも生活水準は低く(最も今回の訪問先がインド北部で経済発展が遅れた地域)社会の仕組みや制度が整備されて居ないと感じた。人口が10億とも11億とも言われるこの国で200人に一人優秀な人間がいてもデンマークやフィランドの全人口に匹敵する人数になる。ごく一部の人々がズバ抜けて優秀で豊かな国インドを我々は日本でイメージしている
日本の歴史には宗教戦争がなかった。日本には多様な文化を受け入れる抱擁力があり明治新の西欧文明を受け入れた時間は素早いものでした。20世紀は貧困からファシズムが台頭しこれは軍事力で潰されました、次に共産主義が台頭しましたが此れは内部から崩壊してゆきました。アトミズム(自己優位と考える)的な思想と全ての人どうし連続性(他人は自分の延長線上にあると考えれば寛容になれる)があると考える思想、上下ではなく異なる連続した思想。日本は多様な歴史観、宗教観を寛容に受け入れる思想を世界に広め、文化交流の平和国家を!
